心と体の充実感や幸福度を表す「ウェルビーイング」。日立製作所はこの定義の難しいテーマに長年取り組んできた。先導してきたのがフェローの矢野和男氏だ。「テクノロジー×幸福」の研究をもとに新会社を立ち上げ、3月には幸せになるトレーニングアプリの提供を始めた。ウェルビーイングと経済成長は両立できるか。矢野氏の挑戦を追った。
日立の子会社、ハピネスプラネット(東京都国分寺市)が提供を始めたアプリ「ハピネスプラネットジム」は毎朝の通知から始まる。
3人で宣言・応援
「積極的に機会を作ろう」。毎朝、異なるアドバイスが届き、利用者は自分が「今日がんばりたいこと」を20字程度で宣言する。
アプリで宣言すると、今度は3人1組のチームの他のメンバーが応援や感謝の言葉を送る。「着実に進んでいます」「今度ぜひ教えてください」「見習いたい」などだ。
このサービスは企業向けで、1チーム3人参加の場合で年12万円から提供する。3人1組のメンバーをランダムに設定する。上司と部下、同僚の構成で毎週メンバーは変わる。応援の表現方法はワークショップで細かく指導する。普段の業務で直接的に関わらない人と交わり、関係を構築できる。
業務に直結しないアプリだ。だが日々の宣言と応援の繰り返しにより、「社員が会社の役に立っている」「必要とされている」といった心理的安全性が高まる。それが社員の幸せにつながり、仕事への意欲が向上する。
3月の試験提供の開始から、企業や病院など91団体で計3000人が利用する。情報サービスのSCSKも導入した。「テレワークで閉塞感があったが、自分の気持ちを受け止めてくれる人がいることで気が楽になった」との反響があった。
個人や組織の幸福を高めるサービスを提供するハピネスプラネットは2020年7月に設立した。日立を含め3社から出資を受け、日立本体から独立した「出島」形式の組織だ。最高経営責任者(CEO)を務めるのが矢野氏だ。
曖昧でつかみ所のないウェルビーイングだが「努力や練習で高められる」と矢野氏は言い切る。「幸せって哲学ではなく科学なんですよ」
ウェルビーイングという言葉は1946年の世界保健機関(WHO)の憲章採択時に登場し、広義の健康の定義ですでに使われていた。だが一般に広く使われ始めたのは、経団連が企業行動憲章にSDGs(持続可能な開発目標)を盛り込んだ17年ころからだ。会社でも社員の働きがいを高めてもらおうと、ウェルビーイングに関心を寄せる経営者は増えている。
一方、矢野氏が幸せやウェルビーイングに注目したのは約20年前に遡る。現在に至るまで、ウェルビーイングを科学して組織にどう取り入れられるか格闘してきた。
日立に入社してから約20年、半導体の研究者だった。だが03年に日立が半導体事業から撤退したことで、矢野氏の人生は一転する。
築き上げた人脈や知識が使えない状況に途方に暮れた。変化が起きても揺るぎない「自分の究極の目的は何だ」と問いかけるようになった。
模索するなか、米国シカゴの空港の書店で書籍「ハピネスの方法」を見つけた。「幸せな人は生産性が高い」と書かれていた。当時の米国は幸せで前向きになるための心理学「ポジティブ心理学」が盛んで、幸せと生産性が密接な関係だと明らかになりつつあった。矢野氏は科学で人を幸せに導くという使命に向かい、かじを切った。著者のカリフォルニア大学リバーサイド校の教授と会い、矢野氏は人間の行動を定量測定する技術を紹介して、共同研究を始めた。
幸せと経済を両立
06年開発の腕時計型の加速度センサーを改良し、赤外線センサーなどを追加した名刺サイズの首掛け型デバイスを作った。心理学の研究者たちと研究を重ね、幸せは訓練できることも明らかになった。20年、日立の東原敏昭社長(当時)に矢野氏が打診して、ハピネスプラネットを立ち上げた。その後の研究で、ウェルビーイングな組織には上司と部下を越えた横や斜めの多様な社会的ネットワーク構築が重要であることも明らかになった。
日本企業がウェルビーイングを重視するうえで、大切になってくるのは「20世紀型の価値観」の棄却と「21世紀型」への軌道修正だと、矢野氏は主張する。20世紀型とは「経済が発展するほど人は幸せになれる」ことで、21世紀型とは「幸せと経済活動を両立する」考え方だ。
前向きに働くことで人は創造的になり、経済価値も生まれる。テクノロジーは省力化や自動化など「人を楽にする」文脈で使われてきたが、「前向きで幸せにする」ために使うべきだと説く。
今後はAIを使って3人組の形成やアドバイスの表示を最適化するなど機能更新を検討する。経済と幸せを両立するには企業や個人が試行錯誤を続けることが重要となる。「テクノロジーで人を幸せにする」という、矢野氏の究極の目的を実現する道は始まったばかりだ。
「健康経営」サービス続々
企業が社員のウェルビーイングを高める上でキーワードの一つとされるのが「健康経営」だ。従業員の精神的な健康度を可視化して離職などを防ぐメンタルヘルステックは、形骸化も指摘されるストレスチェック調査の代替として台頭している。テレワークで従業員の様子が見えにくくなるなか、データで事前にリスクを予測し、アプリでセルフケアを促すなど企業は模索している。
NTTデータ経営研究所とNTTコムリサーチによると、労働者の約2人に1人は精神的健康度が低下し、そのうち6割はコロナ下で『ストレスや悩みが増えた』と回答した。人手不足で企業の人的資本の重要性が高まり、従業員のメンタルヘルス支援は企業にとって喫緊の課題だ。
1100社が導入するメンタルヘルステックのラフール(東京・中央)は立正大と独自のスコアリング指標を作成した。フィードバックして個人のセルフケアの意識を高める。従業員1000人以上の企業に導入した際、サーベイを使って離職を抑制でき、コストを約1億円削減した実績を持つ。
ラフールのサーベイは算出可能な要素が多いのが特徴で、総合的に従業員の心身のケアを促すことができる。メンタルヘルスだけでなく、身体的疲労感やエンゲージメント、人間関係も測定できる。
組織が面談などに生かし、本人に結果を表示し行動変容を促すことも可能だ。米国のスマートウオッチ「Fitbit(フィットビット)」と連携し、ランニングなどの運動データも統合できる。
蓄積した13万5千人分のデータをもとに人工知能(AI)や機械学習モデルを使うこともできる。離職やハラスメントのリスクやESG施策のチェックといった、組織の課題や非財務情報も可視化できる。今後は健康診断や勤怠データ、オンライン診療データなどを組み合わせ、より精度の高い分析を実施する。
スタートアップのHakali(ハカリ、東京・新宿)は個人利用に特化したデジタル認知行動療法アプリ「Awarefy」(アウェアファイ)を提供している。自分の感情や出来事をテキストで記入・評価し、自己理解につなげる。三井物産労働組合と共同で実証実験を始めた。アプリ利用によりネガティブな気分や怒り、疲労の点で改善がみられた。
アウェアファイは月額680円のサービスで、データ活用などでは一切マネタイズしていない。個人情報に当たるテキストデータを暗号化してサーバーに保存する。「あくまでもデータは個人のものだ。企業管理としての活用や、人事評価を懸念して個人が素直に回答できないことはあってはならない」(ハカリ)と強調する。
個人情報の扱いには課題
海外に目を向けると、米国では日本より早くメンタルヘルステックが浸透している。日本のような国民皆保険制度がない米国はセルフケアが一般化し、メンタルヘルスに関してもアプリなどを活用して健康状態を個人で管理する文化が広がっている。
しかし、メンタルヘルスのアプリの広がりに伴い、プライバシー保護が問題視され始めている。ブラウザー「Firefox」を提供する米Mozillaの調査によると、32のメンタルヘルスに関するアプリのうち約9割が最低限のセキュリティー基準を満たしていなかった。データを無断でサードパーティーと共有するような、管理のずさんさなアプリもあった。従業員の離職リスクやメンタルヘルスを数値化する動きは企業にとって重要な半面、デリケートな情報を扱ううえでの慎重さや匿名性、閲覧権限の設定など細やかな配慮が必要だ。
(高崎文)